
増えている高齢者の救急搬送
近年、高齢者の救急搬送の割合が増えているようですが、これは、高齢化社会なのですから当然と言えば当然の話です。
ですが、中でも最近増えているのが、終末期を自宅で過ごしたいと希望された方の救急搬送依頼だそうです。
闘病中の高齢者が、最期は自宅で向かえたいと希望した場合、退院して自宅療養になります。
当然ながら、高齢者本人と家族の話し合いの元、決断したことだと思います。
ところが、いざとなると、やはり家族は救急車を呼んでしまう。
もう最期であろう高齢者のご家族に、救急医は「延命措置をしても意識が戻る確率は少ない」と伝えます。
家族は考えた末、チューブをつなぐ延命措置をとることが多いようです。
結果、最後は自宅でと決めていた本人の希望はかなうことなく、最期の場所は病院となってしまうということです。
延命措置は誰のためのものか
家族にとっては、どんな姿であっても一分一秒でも生きていて欲しいと思うのは当然です。
意識がなく、チューブに繋がれただけの状態でも、です。
セラピストになる前は、私も全く同じ考えで、
「会話ができなくても、そこに存在しているだけで嬉しい」と思っていました。
でもそれは、生きている人、つまり残された家族のエゴにすぎないのだと気付きました。
ただそこに肉体が横たわっているだけの存在は、本人にとって幸せと言えるのでしょうか。
本人の希望は〝自宅で最期を迎える〟のはずでした。
自分がその立場になった時、どんな気持ちになるでしょう。
人は自分のこととなると冷静に判断する力を失いがちなので、仕方のない部分はあります。
が、そのために前もって話し合っているはずです。
やはり、最期は本人の希望を尊重してあげたいですね。
死を迎えようとしている人は、食欲がなくなって当たり前、呼吸が浅くなって当たり前。
苦しんでいる場合は別ですが、そうでなければ、自然の摂理に任せたいものです。
延命措置というのは、結局は本人のためではなく、家族のためのものだなと感じます。
死と向き合っている本人は、おそらくもう覚悟はできており、心は穏やかなはずです。
覚悟ができないのは、残された家族の方。
交通事故などで急な場合は別として、高齢者の場合は、家族はある程度の覚悟はしておかなければならないと思います。
両親が自分より先に亡くなるのは当たり前のことで、誰もがその辛さを経験するものです。
当の本人は、おそらく家族以上に覚悟はできているはずですし、自分の最期の日がわかっています。
最期は「もう逝ってもいいよ。安らかにね。今までありがとう。」と言えるくらい、残された時間を有意義に使いたくさんコミュニケーションをとることです。
人生最期の場所にこだわりますか?
できれば慣れ親しんだ家で最期を向かえたい、と思う人は多いでしょう。
ですが私は、どこで最期を迎えるかより、どう最期を迎えるかのほうが、はるかに重要だと感じます。
理由は、輪廻転生に関係します。
人間は何度も生まれ変わって魂を成長させていくのですが、最期の瞬間は次に生まれる瞬間に繋がります。
すぐに転生しない場合でも、です。
苦しんで亡くなった人は苦しんで、穏やかに亡くなった人は穏やかに生まれるということです。
本人は当然記憶していませんが、魂は記憶しています。
例えば、夜眠る前に喧嘩をした場合、翌朝起きた時ふと昨晩の喧嘩を思い出し、なんだかスッキリしませんよね。
それと同じで、死に際の心の状態は、そのまま来世の生まれる瞬間に引き継がれます。
家族の最期を目の当たりにした時、意識がない状態でも聴覚は残っていて、あなたの声は必ず聴こえています。
最期は必ず、感謝の気持ちを伝えて見送りましょう。
「ありがとう」はもちろんですが、「許すよ」はもっと重要なのです。
人間は必ず何かしら罪悪感をもっています。
心の奥に閉まったまま亡くなる方は、多いと思います。
何一つ心当たりはなくても「今までありがとう」と一緒に「色々なことは、全て許すから安心してね。」もぜひ伝えてあげて欲しいです。
自分の最期について決めておく
死について考えなければいけないのは、高齢者だけではありません。
どんなに若い人でも、今日1日無事に過ごせるという保証はどこにもありません。
本当は、朝起きた時が生まれた時、夜寝る時が死ぬ時だと思って過ごすことが一番。
そして、できれば普段から、緊急時の色々なことを家族間で話し合っておくことはとても大事だと思います。
家族間のコミュニケーションにもなりますし、こんな考えを持っていたのかという発見もあります。
この記事を読んだ機会に、ぜひ、今晩からでも話し合ってみてください。
死に逝く人は何を想うのか |